木工芸作家

前田純一

 

回想録

1984年から2011年

 

江戸指物ってなに?というと、ホゾを組み釘を打たない、と技法のことが書かれ誤解されがちですが、実は公家文化を軸に発達して昇華した京指物に対して、東京に都が移ってから発達した江戸文化として発達したものを、感覚的な特徴から江戸指物として分けたものなのです。

学びたいことがあり、僕は松本に移住しましたが、お江戸のセンス、洗練とはなんなのかと、毎夕晩酌酩酊して朝を迎えますが、京のはなやかに対し、よぶんは戦いに邪魔、断捨離して昇華した江戸の渋さ、イキ、いなせ、ってなんなんだと、理屈で説明しようがないのでさっさと寝ちゃうんです。

 

僕が27歳から松本へ移住後しばらく席を置かせていただいた日本工芸会、東京支部の場合、7つの美術工芸の部門分けは、

 木工、竹工部会、陶芸部会、染物、織物部会、人形部会、漆芸部会、金工部会、象嵌などを含むその他の部会、ですが、地方には、縄文土器のように土から生まれる生命力溢れた優れたまだ数多く工芸が存在し、例えば日本刀、刀の鍔、道祖神、石仏、厨子仏壇、など僕が松本で学びたかったことそれは、都が忘れがちな民芸のもつ土の匂いや民族信仰などなど、恵まれた自然からの教えだったと思います。


松本市三城に移住してから

since 1984

鎌倉に住んでいた当時から、アウトドアが好きで、子供たちを連れてギターを積み、ダムに沈む前の宮ヶ瀬あたりにキャンプに出かけていました。

澄んだ空気と美味しい水が何よりのご馳走でしたが、クルマは素敵な観音開きのリヤドア、談合坂をかけあがるトルクの厚い巨大ガソリンエンジンを積んだランドクルーザーが何より頼りになる相棒でした。

フイルム時代のこの写真は、最後の引っ越し便で後ろにトレーラーをつないで雪道を恐る恐る走り、移住先三城に無事たどり着いたのですが、木工家の引っ越しは重い電動工具や大切な木材はじめ、愛犬の雑種ベラちゃんがいたので、翌日、魂が抜けたように寝た覚えがあります


月の終わり根を詰めたこともあって、
夕方、犬と庭を歩いた
湧水を溜めた池は大きく見えるが、移住したころ
弟子の秀夫と手作業で作ったもので笑えるほど小さい
それでも吹き寄せというのだろうか、
秋の終わりは恐ろしいほど美しい


記録「太陽1986年」

移住後間もなく取材していただきました



木と鉄をくみあわせて僕は作品を作りますが、鍛造と呼ばれる鉄を火で赤め、柔らかいうちにハンマーで叩く技法は、三城に移住してからのものでした。

釘が馬の爪の神経に触れると、蹴飛ばされます。

美しい形を作る仕事の怖さと楽しさが、今の作品の個性になったわけですが、それは蹄鉄師を雇う余裕のなかったことと、自分の好奇心と、ルークと名付けた牡のサラブレッドとの蹄鉄打ちを通じた信頼と、人と馬との心のふれあいから生まれたもので、錆びて循環する伝統的な鉄という素材のとりこになったのもこの時からでした

ROOK❕メリークリスマス🎅

大切なことを教えてもらったよ

心からありがとう❗️


楢の木のBENCH 1989年


日本工芸会をはなれ、無所属の個人作家になって、何よりも作りたかったのは、どこにもない自分の椅子でした。鍛造による軽量でしなやかなアイアンのフレームに渦巻の脚端をつけた変ないすでしたが、その後三十数年を経て今だに手放せない椅子になりました。

片方だけに斜めにつけた肘掛けはギターを弾くためのものでした

少年時代を過ごした東京駅で

 

2020年に愛犬ステラと、相次いで天国へ行ってしまったフューチャーとの思い出です


銀座和光

前田純一 大作展

日本工芸会を退き足かけ20年、4回の個展を銀座和光で開かせていただき、たくさんのお客様、美術部の皆さまに、僕は育てられました。

 

ありがとうございました



移住後に、自分で土地の開拓をしながら、住まいと工房を作り、その経験から学んだ沢山のことがらを作品に反映することができました。

大きな家具を作り和光のエレベータに乗らないこともありましたが、この頃から作り始めた小さなお厨子が、歳をとった今の制作に続くことになりました。

 

日本橋高島屋三越界隈、銀座和光辺り、が移り変わっていきます

宝町に生まれ、中央通り沿いに新橋銀座日本橋神田をフィールドに僕は育ちました。

ある意味でラッキーかもしれませんが、

これほど美味しい空気水、感動的な風景を知らずに大人になりましたから

雪の山で無事にこうしているのが信じられない夢のようです。

制作の方向に悩んだ若い頃、ご縁をもらい日本橋から銀座に発表の場を移すことができたのが、奇跡のような人生の転機となりました

今、銀座が新しい時代に向かっていきますが、世界の日本の銀座和光が永遠でありますよう。

育てていただいたみなさまに、お世話になった大きなお礼と共に、祈ります

ほんとうにありがとうございました

1996年チャイムから

「アートのある旅」

銀座和光・1996年チャイム誌掲載



アールが来たとき、首輪を作りたくて溶かし込み象嵌を習ったことがありました。

だがねで刻んだ文字の上から銀を溶かして被せ、余分を削り取ると文字が現れる技法で、たたき込み象嵌のようなシャープな感じにならず、滲んだ感覚が好きで、その後厨子金物に生かしているのですが、アールが教えてくれた僕のボケ加減といえましょうか(爆)

アールありがとう

銀と真鍮のアールのネックレス

1986年

謝❗️❗️

犬を連れて庭に降りて開拓にかかると、樹木の剪定や、北海道大学のケンタッキーブルーグラスから学んだ寒冷地での芝作りや、無農薬で植物を育てることの難しさ、薪を燃やすことや、炭をおこすことの難しさと愉しみ、プラスティックごみと木のごみとの違いなどなどなど、都会では学ぶことのなかったたくさんに興味が湧いて、とても面白かった覚えがあります


炭火の楽しみ

炭、木のエネルギーで暮らすのは特殊なことと思われますが、日本の国は七割が森林なのでと、松本のおとなり、塩尻市でも木の力で電気を起こしていて豊かな感じがして、若い方たちが明るい未来を作ろうとしている姿に、心から応援したい気持ちがします。

日本の海の幸山の幸「炭火の楽しみ」

🎌お正月は鉄瓶のつまみに紅白の糸を巻こうなどと、今から楽しみです🎍

火 いのり 暮らし

 


日本の鉋は、ヤリかんな、台かんな共に、あわせ鋼と呼ばれる、柔らかい鉄と鋼を、ホウ砂を挟んで鍛造する西洋にない独特な刃の製作方法を特徴としています。

法隆寺のエンタシス柱を削ったことで有名なヤリかんなと、平に削ることを目的とした台かんなとの違いは、刃物を樫の木で作るかんな台に嵌め込んで作る製作法ですが、加えて、台にはめ込む刃の角度と、一枚の刃で構成される一枚刃鉋と二枚の刃物で構成する二枚刃かんながあることから、古来日本の木工のかんなの修行が厳しいものとされて来ました


美術工芸作家 前田純一

自分史

2000年から

 


コロナで行けなかった横浜鎌倉へ

懐かしいともだちたちと再会したり

コロナでご無沙汰してしまった墓まいりでは

ぼちぼち息子に任せますよと(爆)

2021年秋

鎌倉覚園寺にある、54で亡くなった母と父の墓にて

五輪塔の原寸をひき、長い時間をかけて設計していた父の姿が僕の目に目に焼き付いています


作ったものではなくて

やってこれたことに

ほんとうにありがとう

孫娘のダイニングテェア

2011年銀座和光での最後の個展


日本橋高島屋三越界隈、銀座和光辺り、が移り変わっていきます

宝町に生まれ、中央通り沿いに新橋銀座日本橋神田をフィールドに僕は育ちました。

ある意味でラッキーかもしれませんが、

これほど美味しい空気水、感動的な風景を知らずに大人になりましたから

雪の山で無事にこうしているのが信じられない夢のようです。

制作の方向に悩んだ若い頃、ご縁をもらい日本橋から銀座に発表の場を移すことができたのが、奇跡のような人生の転機となりました

今、銀座が新しい時代に向かっていきますが、世界の日本の銀座和光が永遠でありますよう。

育てていただいたみなさまに、お世話になった大きなお礼と共に、祈ります

ほんとうにありがとうございました

1996年チャイムから

星の スツールは思い出深くなりました

玄関脇の小さなクロゼット

気がかりだった老犬を抱いたり、新顔に会わせたり、

マンネリ気味のみなとみらい赤煉瓦から、いいお店ができたという娘にしたがったハンマーヘッドのお店は、自家製のジンとスモークサーモンがなかなか、、

娘の胸に、いつか作った銀の星のお守りが光っていました

翌朝、自分への土産、ゆざわやのVANGOCHを開きましたが、年末に向かっていい仕事ができそうな気がして楽しみです


JUNICHI MAEDA2022