前田木芸工房
公益財団法人 遠山記念館所蔵
前田南斎 前田保三 作品
匠の時代「前田南斎と木内省古の木工藝」
そうじゅしょう「桑樹匠」この美しい名は、明治期後半に登場した木工家のことをさす。桑材を主に、特に伊豆七島の御蔵島産の島桑を素材として、江戸指物の優れた技量を揮う作家に与えられた呼称である。従来から桑を扱う桑物師は、木工界でも上位におかれていたが、新しい桑樹匠は、さらにその上にあることを、また作家として独自性を主張するものであった。 桑材は年輪が緻密で粘りのある硬質材で、細工をしても木崩れしないのが特色。しかも、珠杢、波紋などの美しい木理と、歳月とともに茶褐色へと変化する色合いにも趣がある。日向や江州などの地桑よりも、島桑が本場物として珍重された。明治の後半に定期航路が始まった御蔵島では、
困難な伐採ながら、豊富な島桑の搬出が行われるようになる。
この銘木を用いて、最初に桑樹匠を名乗ったのが、三宅島出身の前田桑明(1865~1942)で、厨子、書棚などを制作した。.博覧会にも出品して、大正、昭和天皇の即位大典に際して、献上調度制作の栄にも浴した。 桑明についで頭角を現したのが,伊豆稲取出身の前田南斎(1892~1956)
と、伊豆修善寺出身の稲木東千里(1892−1979)である。前田南斎は同じ前田姓だが桑明と関係はなく、地元で修行ののち、21歳時に東京へ出て、翌年に京橋にて、桑樹匠として一家を持つ。24歳で東京府工芸展の二等となり、以後、大正年間に国内外の博覧会で受賞を重ねた。遠山記念館には南斎作品が30数点あり、そのほとんどは、昭和11年の遠山邸竣工に併せて調えられたものである遠山元一は知人の紹介で南斎を知り、これらを注文した。元一は、作家の経済的なな支えと、作品制作の機会を提供し、作家南斎は、自らの技と意匠をより一層に磨き上げていった。当時の五十歳代半ば、各種展覧会や日本美術家協会の審査委員をつとめ、最盛期にあった。制作に多くの弟子とともに南斎工房が一丸となって制作にあたったことであろう。その作風は、当代木工界を二分した稲木東千里が、伝統と様式化された形態の、 用を越えた独創性を主張していったのに対して、南斎はあくまでも伝統に忠実で、細部にまで気を配し、品格と雅趣を備える作品を制作した。桑の素材の持ち味を、巧みに意匠に生かした作家であった。この南斎作品の木地に、木象嵌の装飾を施したのが木内省古(1882−1961)である。父祖について象嵌を学んだ省古は、父とともに正倉院御物整理係となり、木工品の修理と木画などの古典技法の研究につとめた。 当館の五点の合作からは、一方が堅実な指物の技、他方が華麗な装飾という、お互いの高い技量を尊重し合い、一つの作品を作り上げて行く態度がみてとれる。いったい、象嵌のデザインを二人がどのように決定していったのか、今となっては不明だが、両者が素材の木「樹」に対して深い慈しみと、優しい接し方していたことは、作品がはっきりと物語っているであろう
遠山邸仏間の須弥壇は、そんな南斎の主導 で作られた優れた工芸です。 すぐには開け方 のわからない筋金物をはずし、 島桑と桐材を 組み合わせた火灯窓形の戸を開くと、 萩原雅 春綱島正太郎(彩色) 山本瑞雲(彫刻)、 香取正彦 (金工) 前田保三(格天井、彫刻、 透し彫り、浮き彫り)ほか、当時を代表する。 彫刻家、金工家、日本画家、蒔絵作家、染織 作家などによる日本の近代工芸の集大成が現 れます。 工芸作家が共同製作する形態が少な くなった現代にあって、我が国の貴重な文化 遺産といえましょう。
前田純一記
桑材太子厨子
鎌倉市二階堂
覚園寺収蔵
1900年代 前田保三作
大きさ 間口30-奥行26 高さ47(cm)
父保三が聖徳太子像(国画会森大造作)のために製作したものです
(銀座和光個展・1995_11月_和光「日本人のくらしを原点に会場にて)
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